ゲーム製作者とプレイヤーとのプレイ感覚に関する「温度差」について、違う角度からもうひとつかかせていただきます(〈その3〉を参照)。
『ぐるぐるにゃーす』を初めてゲームマーケットに出品したときのこと。小学生の女の子を連れたお父さんが試遊で遊んでみたいとブースを尋ねてくれました。
このときは血なまぐさいゲームを売る勤め先の会社ブースの端っこでひっそり「猫ゲーム」を売っていたのですが、たまたまウォーシミュレーションゲーム好きのお父さんだったので、本作を見つけてくれたようで、早速3人でプレイしてみることに。
ゲーム自体は、とある町の野良猫になって、自分「居場所」を確保しながら〈居心地ポイント〉をたくさん持っているプレイヤーの勝ち、という内容の作品が『ぐるぐるにゃーす』です。
で、実際にプレイしてみてゲームが終わったときの感想を聞いてみたのですが、案外楽しんで遊んでくれたようでホッと一安心。ただ、お父さんから以外なひとことを効くことになりました。
「かなり、ガチなゲームですね、これ」
はてさて、ここで言う「ガチ」とはどういう意味だったのかちょっと気になったので、改めてお父さんに聞いてみたのですが、帰ってきた言葉に驚かされました。
「いや、もっとほのぼのとしたファミリーゲームを想像していたんだけど、ウォーシミュレーションゲームっぽいというか、戦略・戦術とかテクニックが必要なゲームだなって」
まぁ、ある意味、褒め言葉とも言えますが、ウォーシミュレーションゲームとは違うボードゲームを作りたい! と思っていただけに、軽くショックを受けた記憶があります。
私の得意とするゲームは歴史や事象に対して内容を寄せるデザイン手法が得意とするだけに、町の中の野良猫がどう縄張りを確保していくかを精密に描こうとしたのかもしれません。もちろん、精密に描いた記憶も気持ちもなく、より現実に即したほうが良いかな? と思いながら、ルールはシンプルに作るべきだと思っていたのですが、先の感想の通りまだ「難しい」とも言える内容だったのです。
テーマに「らしさ」を与えるために、様々なゲーム的なギミックを与えるのは多々あるのですが、そこにこだわりすぎるとルールを複雑にしてしまい、ゲームのアビリティが下がっていしまいます。そこのバランスを保つことがとても重要で、極力ルールはシェイプアップする(=削ぎ取る)に越したことはないのです。
私が商業レベルで販売したゲーム『長篠設楽原合戦』や『源平合戦』なんかでも同じようなことは起こりました。
『長篠設楽原合戦』では、ゲームの根幹から変更されて、発売時にはシステムすら残りませんでしたが、当初は両陣営が出すカードに「スピードレベル」が施されており、スピードレベルの早い陣営が先にカードの処理をするというギミックを入れていました。
『源平合戦』では両陣営の部隊の統率を指揮官ごとに配下に入れることでまとめて行動できるようにして、指揮順位の高い指揮官に統率されることで少ない手番で大部隊を動かせるようなシステムを組み込んでいましたが、これもオミットすることに。
両方ともにゲームとしては面白い処理方法ですが、ルールを複雑にすることと処理自体が煩雑になることから無くなったルールでした。よりゲームシステムを〈軽く〉するために取られた処置だったのです。
歴史や事象の再現性を重視するあまり、ルール自体を〈重く〉すると、プレイアビリティが極端に下がることもあるので、この辺りは注意せねばなりません。ただ、削りすぎると「らしさ」が消えてしまいよりアブストラクトなゲームになってしまうことも。
もちろん、アブストラクトになるのが悪いわけではなく、良い要素だけを抽出して面白ければそれに越したことはないのですが。
このバランスが絶妙に取られた時に、ゲーム制作者側とプレイヤーの「温度差」はきっとなくなるんでしょうね。
2019/5/8
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